障害を持つ子どもの親御さんを対象に、いろいろな媒体
に書いた文章を記したページです。
今まで書いたものを、少しずつ載せていくつもりです。
テーマによっては、新しいものを用意することもあります。


きょうだいのことについて
  Date: 2001-7-15(Sat) 編集


−ダウン症の子どもとそのきょうだい、
      そして親であるわたしたち−


人が人を「ありのままに受けとめること」。
これは、けして簡単なことではありません。
その中で、人は弱いものをありのままに受けとめる方が、パワーのあるもの、大きいものをありのままに受けとめるよりも、こなしやすいことなのかもしれません。

ダウン症の子どもは、親が「子どもがダウン症であること」を受けとめ、 包み込むことを始め、愛情のこもったまなざしを注ぐと、やわらかな笑顔で応えてくれる。
そんな赤ちゃん時代をゆっくりと経て育っていきます。
それに比べて、知的な障害をもたない子どもは、 生まれてまもなくから、がんがん自己主張をし、 人間の未熟さを撒き散らして、方々に頭をぶつけまくって育っていく。
同じ両親の間でのこの違いは、やわらかな愛情を受けるといううえで、 きょうだいの方に不利な面があります。

ダウン症の子どもに、知的な発達に対してのハンディがあるならば、 そのきょうだいは、「自然に自分を包みこんでもらう機会をもつこと」に ハンディを持っているような気がします。
障害をもつ子どもの障害自体を理解し、援助や成長への心づかいを考えていくならば、 そのきょうだいのおかれた立場の、家庭内でのハンディにも、 心を尽くしていく努力が必要なのではないかと思います。

わたしは、「障害を持たない子どもであるきょうだいたちに、愛情のハンディを持たせる親は 正しくない」とか、 「みんなで正しい、りっぱな親になりましょう」とかと 正しさというものを強制するつもりはありません。
障害を持つ子の『障害』にとまどいながらも、それが日常になり、 いわゆる『普通』に感じていけば、 障害を持たない子どもの『障害のなさ』にも、とまどいを感じ始めるのは、 当然のことと思えるからです。

世の中は、障害を持つ人は少数です。
だから『障害』は、本来イレギュラーなことです。
しかし、家庭の中で、子どものひとりが障害を持ち、 そのきょうだいがひとりかふたりだとしたら、 その家庭の中では、『障害を持つ人』は「絶対的な少数派」ではなくなるのです。
親は「ふたつのものさし」にふりまわされて、 「なにが普通なのか」、よくわからなくなっていくのは自然なことだと思うのです。

ダウン症の子どものきょうだいの持っている、 親子関係の中で生まれやすい『ハンディ』について、それを認識した上で、 子どもの個性に合わせた対処をすること。
ダウン症の子どもとそのきょうだいを持つ親御さんたちの中で、 この種のことに対して、様々に工夫をしたり、 力を尽くしていらっしゃる方はたくさんいます。

そんな方々のお話を聞いていると、自分たちがりっぱな親になろうと、 がむしゃらに努力するよりも、「対処が必要な点を認識して、工夫する」方が、 自然によい方向が生まれていくような感想を持ちます。

きょうだいの個性のちがいに、親がとまどいながら育てていくこと。
これは実は、古今東西、そこらじゅうにころがっているところです。
とまどいを感じて、壁にあたったときは、親しい仲の人と、 たくさん話し合ってみてください。
聞いたり話したりすることは、意外な発見を生んでくれるものです。

わたしたちの生活の中では、いけないと思ってもやってしまいがちなことは、 たくさんあります。
感じる心は年齢分だとわかっていても、 障害を持つ子を年齢より低く扱ってしまったり、障害を持たない子どもに、 年齢より大人になることを強いてしまったりすること。
障害を持たない子どもに対して、 「〜〜くらいできるのは当たり前だろう。アンタは健常児なんだから」と、 ほめことばを、ついつい、ケチってしまうこと。
きょうだい間の、子どもらしいやりとりの際に、ついつい口を出して 、ダウン症の子どもをかばいすぎてしまうこと。
障害を持たない子どもの自己主張の強さに向かい合わずに、 ダウン症の子どもとの、やわらかな関係に逃げこみたくなってしまうこと。

これを全てやらないという親は、正しいのかもしれない。
でも、わかっていながら、正しくはなれない。
そこが、つらいところだと思います。

例えば、そんなことのひとつひとつを、まず、自分たちの中に認めてしまおう。
つまりは「親である」自分たち自身をも「ありのままに受けとめる」ことからまず出発しようと、 わたしは提言したい。

親も子どもも、生活の中で、いろいろなことにじたばたしている。
その中で、その家庭を構成するひとりひとりの、様々な個性が生かされること。
それは「ありのままに受けとめる」ことが、出発点なのではないかと思います。
そこに、画一的な正しさにとどまらない、 いろいろなことに対しての答えが潜んでいるような気がします。

    *日本ダウン症協会練馬支部「ちゅうりっぷの会」会報、
     1997年10月号掲載。
    *愛児クリニック、ニュースレター、第24号に転載
    *ダウン症フォーラムin横浜において、ポスターセッションにて、
     掲示。

      −一部、加筆、修正しました−


−きょうだいのことについて−


ダウン症の赤ちゃんが生まれた・・・。
すでにお子さんのいる方は、「“障害児のきょうだい”という立場をこの子が背負っていく」 という心配に、胸を痛めたのではないでしょうか。
第一子がダウン症児で、第二子が誕生という場合、 第一子への愛情が、第二子の出現で薄れるのではと言う危惧を 感じられた方もいるでしょう。
また、ダウン症児とのやわらかなゆっくりとした時間の流れの やり取りに慣れてしまって、 ハンディを持たないきょうだいの気持ちの表現の激しさにため息をついたり、 冷たくあたってしまったりということもあるでしょう。

自分が“障害児のきょうだい”の経験をせずにおとなになってしまったから “障害児のきょうだい”という立場に身を置くわが子が心配で・・・。
だからといって、何をどうしていいかはよくわからない。
目の前にあることをひとつひとつこなしてくだけ。
そんな毎日を、生活として送っているのが日常なのではないでしょうか。

“障害児のきょうだい”を考えるとき、ポイントは二つあると思います。
親として考えておきたい二つのポイントです。

ひとつは“さみしい思いをしていないか”ということ。
全国障害者兄弟姉妹の会の田部井恒夫氏によると、 兄弟は育つ過程で“さみしい思い”を経験している人が少なくない、といいます。
常に目立つ立場にあるハンディを持ったきょうだいの“陰”のように、 自分を感じてしまう子もいるでしょう。

“障害児のきょうだい”の立場にいる同世代の友人達は、このあたりで、 実に微妙な気持ちを教えてくれました。
つい最近、「ああ、わたしは親にかまってもらいたかったのだ」という 気持ちに気づいたという友人。
その気持ちに気づくことに対して、どこか心に封印をおされていたようです。

また、別の友人は“障害をもつきょうだい”と二人でいるときに事故に遭いそうになった時、 「私が死ぬよりも、弟が死ぬ方が母はきっと悲しむだろう」と思ったといいます。

きょうだいの個性が“障害の有無”ということで、 はっきりとしたちがいを見せている分、 “同じ時点で同じやり方できょうだいに平等に愛情を”ということでは、 多少限界があるのかもしれません。
別個の時間、別個のやり方をとる工夫も、時には必要にもなるでしょう。
きょうだいとママだけの時間を有意義に過ごすことを考えたり、 きょうだいとママとで、お手紙をやりとりしたり。
“ママと自分だけのこと”ぐらい特別でないと、 障害をもつという特別なことには、なかなか対抗できないかもしれませんよね。

“きょうだいげんか”の難しさも“さみしい思い”と関連することがあるかもしれません。
ごくふつうの“きょうだいげんか”でも、親からは一方的な攻撃に ついつい見えてしまうことがあります。
きょうだいの言い分に耳を貸すことが、なかなか難しい時だってあるでしょう。
“きょうだいの方に、ありのままに言い分を受け取ってもらいにくい部分がある” ことは、おさえておいた方がいいようです。
「きょうだいげんかをちゃんとしたかった。私 はこれが我慢できないんだという言い分を、ちゃんと妹にぶつけたかった。 妹なりにわかるはずと思っていた」という “きょうだいとしての言い分”が、私には印象的なことばとして残っています。
力関係として、言い分をぶつけることを我慢させたりした時は、 親がその言い分の受け手になったり、理解者になったりすることが、 時に必要になることなのかもしれません。

もうひとつのポイントは将来のことでしょう。
「母は弟が大人になっていくことを考えて育てなかった。
 弟が親から精神的に独立するチャンスを見失わせてしまった。
 弟は今、いろいろな感情のはけ口を、母を相手にしてバランスをとっている。
同じことは私にできないし、してやれない。
母が死んだら、私には何もできないことを、私自身が知っている」。
こう話してくれた友人は、私に繰り返し繰り返したずねました。
「ちぃちゃんを、大人にしようと思って育てている?」

「きょうだいに迷惑をかけたくない」と言ったとしても、 障害を持つ子どもを、将来的なことをあとまわしにして考えて育てた時、 不安を持つのはきょうだいという部分もあります。
きょうだい同士が成人後、まったく関わりを持たなくなるのは、 実に不自然なことです。
きょうだいが無理なく関われたり、できる範囲でなんらかの支えになること 。これはきょうだいにとって望む形 という意見をもつ傾向があるようです。

前述の田部井氏によると、きょうだいが親亡き後、障害を持ったきょうだいに関わって行く場合、 無理のないことが長続きの秘訣だそうです。
きょうだいの相談相手になったり、 利用施設(生活施設、作業施設)と関わったり、たまに泊まりを受け入れたり。
障害者本人も望まないことが多いので、同居は不要だといいます。
そして「きょうだいが無理なく上手にひきつげることを念頭において育ててほしい」といいます。
ただ、きょうだいの将来について、漠然と不安を持つより、 自分にできることが無理のない範囲で見つけられることのほうが
大きいようです。

文中の“全国障害者と共に兄弟姉妹の会”は、親が代理で会員になることができません。
あくまでも本人が本人の意志で申込むことが原則となっているそうです。
そのため、早い時期に入会した人でも、中3〜高校生。
「もっと小さい時から“きょうだい”が別の“きょうだい”に出会う必要があるのではないか」 ということも、今、考えられてるとのことでした。

私はちぃが生まれ、その3年後に弟が生まれてから“障害児のきょうだい”の立場の人に、 いろいろなことを聞かせてもらいました。
親の視点とはまた違う視点があり、親とは違う種類の包容力を感じることもあります。

いろんなことを調べたり、考えたりしつつも、個々の子どもを そのまま見つめて受けとめようという努力目標の中で生活しています。
ちぃの将来をすっきりと見通して考えていくことが、結局のところ、 弟のためでもあったりするんだなあと、あらためて思ったりもしています。

あとは、弟が“障害児のきょうだい”という立場に身をおくことに対しての 思考や悩み等ですが、これは共通の立場にある人とのやり取りの中で育ってほしいと 思っています。
そのことを考えると、家族参加の企画の中で、きょうだい同士が知り合っていく機会を つくっていくことも大切なことなのだろうと思っています。

     *日本ダウン症協会練馬支部「ちゅうりっぷの会」会報、
     2000年1月号掲載。
    *滋賀県「ひよこの会」(ダウン症の子をもつ親の会)会報、
     2000年12月号掲載。
* 全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会
     http://www.normanet.ne.jp/~kyodai/index.htm
      障害者のきょうだいに関する調査報告(概要)
     http://www.normanet.ne.jp/~kyodai/siryu1.htm




−障害児のきょうだいのこと−


「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00261] 障害児の兄弟のこと
発信者ちぃままより抜粋。

兄弟の話題の中で、兄弟に将来を頼むかどうかという話があったので、
情報のご案内です。

「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会」
という団体があります。
結成は昭和38年です。

ここで活躍される方に、講演会の形で
お話を伺ったことがあります。
以下、私が聞いて、印象的だった部分の要旨です。

***************************

「将来の面倒はみなくていい」という親は少なくないが、
そうですかというわけにもいかないのがきょうだいだ。
明らかに誰かの手を必要としている時に、背を向けるということは
簡単にできることじゃない。
それをするということは、きょうだいにとっても『家族を失う』と
いう部分がある。

親に対して思うことは、きちんと育てて上手に引き継がせてほしい
ということ。
障害を持つ子どもに対しての将来のビジョンをしっかり持って、
大人になった時の生活をイメージして育てて欲しいということ。
それに沿って、きょうだいが出来る範囲で援助できるように。

いっしょに住むだけが援助じゃない。
「あそこに住んでこういう生活をしているんだ。」と、
面会なり、帰省先になるなり、職員と連絡をとるなりといった、
そのときの生活なりの援助が自分たちにできるように。
自分たちが安心して、無理なくできるように。

きょうだいはきょうだいの抱える問題がある。
結婚と親亡き後の問題。
これは、どちらも「正確な情報」と「仲間の存在」で越えられるはず。

親が、障害を持つ子どもの将来を考えずに、
大人の生活として未完成のままで年老いていくこと。
それを避けてもらいたい。

******************************

書籍 「きょうだいは親にはなれないけれど」
   全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会東京支部編
   ぶどう社 ¥1600−

全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会

〒101 東京都江東区北砂1−15−8
   地域交流支援センター内
     03-5634-8790
   Fax 03-3644-6808
   
会員及び会費
 正会員: きょうだいに障害者がいる方、ともに活動をすることを
      望む方。(親が代理で申し込むことはできません)
      支部会員・6千円以下 直属会員・6千円
 賛助会員:会の趣旨に賛同し、財政的援助をしてくださる方。
 機関誌購読だけでもできます。(送料込み500円)
 (1996年資料)    

「不平等」のススメ
  Date: 2005-09-25 (Sun)

「障害児のきょうだい児」をお育ての皆様。
「障害児の親」の育児を自分の親に見続けながら育つ、「障害をもつ子のきょうだい児」が持つ淋しさというものがあります。
親がきょうだい児に対して後回しになってしまうときに、「障害のケア」を理由にするのはやめましょう。
はっきり言って、そんなことはわかってます、近くで見てるんだから。
「待たせてゴメン」「待っててくれてありがとう」で充分です。
まずいのは、理由を提示して「ゴメン」と「ありがとう」を省略することです。
「あなたの理由はわかる、でもわたしの気持ちは納得しない」なんてことを子どもが言うのは「技術的に」無理です。
自ずと、口はふさがれます。

その上で、今回はきょうだい児に対しての「甘い汁」の与え方です。
きょうだいってのは、愛情は平等がよかろ、と思いますよね?
片方は障害をもつことで手がとられるから、なんとか「平等」にしてやろうと思いますわね?
ところがどっこい、です。
きょうだいっていうのは心理として、欲しいのは「平等」ではなく、
「平等より自分がちょっとだけアッチよりもかわいがられてる」というヒソカな喜びです。
罪悪感を持つほどでもない、ほんのちょびっと「優越」みたいなもの。
これ、障害があろうとなかろうと「○○にはナイショだよ」な〜んてこと言いながら 自分だけオヤツもらっちゃった〜〜みたいな「甘さ」ってのを喜ぶ心理ってのが、人間にはあるわけです。
障害児のきょうだい児こそ、これが必要な子どもたちなのだとわたしは思います。

ところが、障害児の親というのは、大胆に定義してしまえば、コレ、下手な人が多いですね。
障害をもたない子どもの方にちょっと優遇ってのは、障害をもつ子の方に、 というより「障害」というものを冷遇するような罪悪感があるんでしょうね。
そんなことは、子どもを生んで「障害」と出会った「親」の事情です。
子どもを生むまで「障害」と無縁であった「親」の事情です。
「障害」と生後数年で、もしくは生まれたときから「障害者の家族」であるきょうだい児は、 そんなことよりまず「親の愛情のゲット」が最重要課題です。
「障害」=「被害の要因」になるところから救ってやらなければなりません。 障害児のきょうだい児というのは、「自分」と、「障害をもつきょうだいと母」、という景色でものを見ていること、 見なければならない状況が多いです。
ちょっとくらいのズルは、ものすごく欲しがっているわけです。
「自分と母」と、「障害をもつきょうだい」の位置関係だって欲しいです。
大人になれば、自然そういう位置関係は増えますが、関係のベースを築くのは「生育歴」の時代です。
すでに「大人になった」親は、そういう経過が想像できますが、きょうだい児は経過以前に「現在進行形の今」が大事です。

ただし、きょうだい児が欲しいのは、障害をもつきょうだい児に対しての「冷遇」ではありません。
きょうだい児にとって、障害をもつきょうだいは、障害があろうがなかろうが「きょうだい」です。
障害をもつきょうだい児に対しての「冷遇」を、きょうだい児に感じさせてしまっては「やりすぎ」です。
欲しいのは、「ちょっとだけズル」です。
以前聞いた話ですが。
「障害をもつ子のきょうだい児の親」のある「先輩」、ちょっとこじれてきた「きょうだい児である『妹』」と、 解決のために交換日記を始めました。
そこでわかったこと。
最後に「○○(妹の名前)が好き」と、書いて欲しがるのだそうだ。
「○○と××(障害児の名前)が好き」ではダメ、「○○も××も好き」でもダメ。
「○○(妹の名前)が好き」、なのだそうです。

「障害をもつ」ということで、家庭内にいろんな要素が生まれる中、障害をもつ子が不在の時は「チャンス」です。
きょうだい児が病欠で、きょうだい児だけが在宅という時も「チャンス」です。
「あなただけ特別よ、うふ」ってテンションが効果的にきょうだい児に届きます。
「ちょっとだけズル」の要素が伴うためには「うふ」ってテンションが必要です。
「わたしはあなたにちょっとだけズルをしてあげたかったのよ、したかったのよ、うふ」です。
つまり、それは「母親の義務感」ではなく、「母親の希望によるもの」であるべきです。
きょうだい児は、そうした「自分のところに走ってきてくれる」ことを待っています。
障害をもつ子が不在で、きょうだい児だけを連れて外出する場合は、 帰るタイミングで絶対に「障害をもつ子の方の我が子」のことを帰る理由として出してはいけません。
以下の「きょうだい児当事者」の話は、このことについてとても参考になります。
私の場合、たとえ弟抜きで母とふたりきりで外出したとしても、 最後は「そろそろ○○(弟)が帰宅する時間だから帰ろうね」と言われてシュンとした思い出ばっかである。 これを言われると楽しい気持ちも激減し、『ああ、やっぱり弟が第一なんだな』と思ってしまうのである。 だからそのうち母親と外出したい気持ちは消えた。独立心の芽生えぢゃ。 似たようなケースで、とあるきょうだい仲間が入院した時、病院に見舞いに来てくれた母親から同様の言葉を言われ、 『悲しくなった』と言っていたっけ。 生活の中心には障害児がいるわけだから母親には悪気が無いんだろうけれど、こっちは傷つくものだ。
「障害をもつ子の方の我が子」のことを帰る理由として出した時点で「馬車」が「かぼちゃ」になってしまいます。
つまり、障害をもつ子が不在の時間は、きょうだい児を「シンデレラ」にするチャンスです。
ちょっと大きくなったきょうだい児は、「馬車」が「かぼちゃ」であることは知っています。
「12時になれば魔法が解ける」ことも知っています。
だからこそ、「かぼちゃ」を「馬車」にする魔法が必要なのだと思います。
わたしは、わたし自身がこの「魔法」を楽しむことが必要だと思っています。
きょうだい児には「ナイショ」ですが、 わたしは実は、障害をもつ子である娘の方にも、「ナイショだようふふ」の「ちょっとだけズル」をするあばずれです。
「楽しいちょっとだけズル」とは、ちょっと違うのですが。
息子が年中のとき、土曜日に熱を出したときのこと。
土曜に受診をして、熱が下がらない日曜の夜、わたしは娘を支援してくださる方に電話をかけました。
「明日の朝、娘を学校まで送ってくれないか」と。
娘は学校までの送迎が必要でした。
息子はその留守番を、何度も何度も経験していました。
でも、熱を出したときくらい、留守番をさせずにそばにいてやりたかったのです、わたしは。
ほんの短い時間でもね。
月曜の朝、娘の送迎をかってでてくれた方が玄関のチャイムを鳴らしました。
すると息子がわたしに、玄関まで連れていってくれと言う。
熱い体を抱き上げて連れていくと、まだ5歳の息子は、その方に「ありがとうございました」と頭を下げました。
ほんの短い時間でも、この子には「自分が直接お礼を言いたい」というくらい、大切なことだったのだなあと、 「きょうだい児の心理」を教えられたような気がしたのでした。

*文中の「きょうだい児当事者」の文章に関しての引用元に関しては別途お問い合わせください。


「障害」を受け入れるということ
  Date: 2005-01-14 (Fri)

「あなたの赤ちゃんはダウン症です」

こう言われてから歩む道は、親によって本当に人それぞれだと思う。
合併症により命の危険があるときは、「命先行」になって、障害に関しての衝撃が後回しになることも多い。
後回しになっているうちに、親子の関係の結びつきが強化されて、「事実を乗り越えられる親」になっていること も多い。
医療との行き来で忙しく、その忙しい日々をどうにかこなしているうちに、「事実を乗り越えられる親」にいつの間 にかなっていたというケースも少なくない。
幸運にも、合併症というものの問題が少なかった子どもの両親の方が、精神的にきつい時間を送るという部分 もある。

「自分が育てることで障害を軽くしてみせる」と情熱に燃える親もいる。
いろいろな努力をすること、し過ぎることの弊害自体もあるのだけれど、それでもそうやって「自分はこんな風に 育てたい」という強固な意志で立ち向かっているうちに「障害を乗り越えられる親」になっている場合もある。
また、療育という世界の感覚に違和感を持ち、その違和感の正体を自分の中でさがしていくうちに「障害を乗り 越えられる親」になっていることもある。

よく使われる言葉は「わたしは立ち直りました」とか、「立ち直りが早いかどうか」ということだと思う。
まあ、人の心や不安なんてものは、そんなに線引いて「ここまでが衝撃、ここからが立ち直り」なんて言えるも のではなく、それなりに引きずりつつ進むものなのではないかとも思うのだけれど。

いろいろな人がいる中で、事実の受け入れというか、「ダウン症です」という告知後の価値観の建設というか、そ ういうことが長期にわたってできない人もいる。
妊娠期間の終了と共に始まった「事実」に対しての不安が、どうしても消しきれない。
運命というものに対しての「被害者」のような気持ちを、どうしても持ち続けてしまうのだと思う。
それは誰にも責めることはできないし、その人がその人の生きてきた人生から生まれた価値観の中で、必要に 応じて少しずつ価値観の修正を加えながら、その人自身が少しずつ少しずつ、何かをつかんでいくことを望むこ とくらいしか、実は他人にはできることではない。
精神的にそばに付き添い、吐き出される「不安」に対しての「耳」になり、その人の「今」を肯定できるような部分 を探す。
好機を見逃さずにつかんで、適切な情報をゆるやかに渡す。
その人に対しての否定は、その人自身が充分に行っているからこその「苦しさ」だと思えば、掘り起こす気には なれない。

個人差の中で、本当に長い時間がかかる人がいる。
人によっての「必要な時間」の個人差は、子どもの発達の個人差か、またはそれ以上かもしれないとも思う。
それは、人間的優劣ではなく、個人差なのだとわたしは思いたい。
同じ障害を持った子どもの親でも、その人がその立場に立つまでの人生は全て人それぞれで、その中で、「障 害との出会い」のたった数ヶ月から数年くらいで、人間の価値が決められるはずもないと思う。
人間というものは、紆余曲折しながらも、意識的無意識的関わらず「前に進みたいと思っている」ということを信 じなければならないとも思う。

「不安」や「障害に対しての否定的な感情」を聞き続けると、ともすれば本人の「否定的な感情」に飲み込まれそ うにもなる。
「否定的な感情」は、イコールでいえば、自分のところにいる我が子の障害に対しての「否定の姿勢」でもある。
こうした視線が、相手の意図にかかわらず我が子にも向けられていることを感じても、それでも耐えなければ、 苦しむ相手には精神的に付き添えない。

関わる相手によって、大なり小なりとエネルギーに差はあるけれども、「なんでこんなに自分はこのことにつき 合い続けるんだろう」という理由は、やっぱり「命への祝福」だと思う。
染色体異常の妊娠は、たいがいは胎児よりずっと前の胎芽の状態で流れていく運命。
それが立派にお腹の中で育ち続け、立派にこの世に「命」として誕生してきた結果、その子はそこにいる。

親の不安の「元」になっている、障害をもつ子ども。
がんばれよ、と思う。
アンタのパパやママも、がんばってる。
だからもうちょっと、もうちょっとだけ待っててくれよ、と思う。

だいじょうぶ。
今日、不安に苦しむあなたのパパやママも、きっと素直に笑ってる日が来るから。
そのことを信じましょうね。
信じ続けましょうね。



「街でダウン症の人を見かけたら」
  Date: 2003-1-16 (Thu)

「ダウン症です」と告知を受け、「なぜわたしのところに!」と衝撃を受け
その思いが落ち着くと、あちこちでダウン症の人を見かけ、
「けして少ない人数の障害ではないんだ」と実感する・・・。
こんなコースをたどった人は多いのではないでしょうか。

さて、ダウン症の人を見かけたら、なんとなく見つめてしまうというのが
皆さん正直なところではないかと思います。
そして「話しかけてみたいけれど、どう話したらいいの?」
という質問もよく受けます。

ママといっしょの小さいお子さんを見かけたら、
まず、ママと視線を合わせてみましょう。
こちらが子どもを連れていれば、話はカンタン。
ここで話しかけていいかどうかがわかります。
合わせた視線にやわらかなものがあったら
「こんにちは」とごあいさつ。
これできっとお話が始まることでしょう。
もしも合わせた視線にすこしでもかたいものを感じたら、そこでストップ。
ダウン症と気づかれることがつらい時代は、その人によって
個人差があるものです。そっと離れるのが親切です。

こちらが子どもを連れていない場合でも、要領は同じ。
連れている場合より、相手は「あれ、この人なんだろう?」とは
思います。
でも、やわらかなまなざしで、我が子を見つめられたことのある方も
多いと思います。
それは多分『身近にダウン症の人がいる人』です。
こちらが子どもを連れていない時の話しかけ方は、
「こんにちは」のごあいさつの後に
「うちの子は○歳なんです」と最初にこちらの子どもの年齢を言えばいいだけです。
これが親ではないケースの場合は、
「仲良くしている子が○歳なんですよ」と言えばOK。
通常、この年齢だけで、話は通じる可能性が大きいです。
ダウン症という言葉を他の人に聞かれたくない人もいますし、
堂々と口に出されたくない方もいますので、
まずは年齢だけを話題にした方が安全です。

では、相手がダウン症児・者本人、ひとりでいる場合、
これは難しいところです。
話しかけたい場合、ポイントは
『いつも相手の立場に立つ視点を忘れないこと』です。
ひとりでいるときに、今、目の前にいる人と自分が同じ年齢の頃、
突然他人から話しかけられたら、誰だってびっくりすると思います。
知らない年上の人が突然話しかけるということは
それ自体、普通のことじゃないんですから。
相手が障害を持っているということは
普通じゃないことをしていいという理由にはなりません。
特に相手に障害があること自体が、
相手に興味を持って話しかける理由である場合は
こちらの都合で、こちらの勝手な希望で、
失礼とは承知しつつも話しかけさせてもらっていいだろうかと
きちんと自覚して話しかけること。
そういうマナーは、どんな相手にも、同じように守るのが
あたりまえのことだと思います。
(もちろん、相手を心配して声をかけるというのは
 また別のケースになりますが)

そして相手がまだまだ子どもという年齢に見えたとしても、
実年齢から想像される大きさよりも小柄だったり、
幼く見えたりする部分があることも忘れないで。
反応や対応が障害によるものとすぐに決めつけようとせず、
その人自身の性格によるものとまずは考える
普通の感性も大切にしてください。

見かけたダウン症児・者本人がひとりでいて、
そして話しかけてみたいと思うときは、
まず、自分が相手と同じくらいの年齢だったらと考えて
『自分がされたらイヤなことはしない・言わない・聞かない』
『自分の子どもがされたらイヤなことはしない・言わない・聞かない』
これが原則です。
たとえ我が子が同じ障害を持っていたとしても
それは免罪符にはなりません。
そして知的障害を持つ人の中には
”いつもと違うこと”に混乱しやすい人が少なくないことも
忘れてはいけません。
大切なことは
『知り合いになりたい、
 お友達にさせてもらいたい』
という、謙虚な、あたたかみのある態度です。
聞きたい、聞きました、さようならというようなその場感覚は
無責任な言動をしやすい、
そしてそういう印象を相手に与えやすいことも忘れてはいけないと思います。

目の前にいるのはダウン症である前に、ひとりの尊厳を持った人間です。
それが当たり前に認識されることで知らない人同士の関係が
始まっていく。
人との出会いの中で、最初から上下関係、強者弱者を匂わせる始まりは、
『普通の人間関係』というところから、とても遠いものです。

娘がまだ赤ちゃんの時、スーパーで知らないオバサンに、
いきなり
「心臓は悪いの? 風邪とか引きやすい?」と聞かれて
とても不愉快な思いをしたことがあります。
それは人にものを聞いたり、話しかけたりする態度では
ありませんでした。
当時、わたしは、この不愉快さを
我が子がダウン症と気づかれることがイヤなのかと
自問自答したりしました。
でも今は、はっきりと言えます。
ああ、アトピー体質だなとすぐわかる赤ちゃんのママに
「卵はだいじょうぶ? かきむしったりするんでしょう?」
って、普通、聞きますか? 突然。
非常に失礼で、不愉快なことだと思います。

近所の耳鼻科の待合室で、
なんとなく、わたしの視界に入るように
にこにこと笑いかける、変なオジサンに出会ったのは、
娘がまだ、歩けない頃のことです。
わたしからこの方に「こんにちは」を言うと、
とてもほっとしたような顔をされて、話しかけてくださいました。
この方のお嬢さんがダウン症、高校生だとのことでした。
その後2年くらいたって、またその耳鼻科の待合室で
今度はこのお嬢さんのおかあさんとも
同じようなきっかけでお知り合いにさせていただきました。
わたしはこの話題のお嬢さんには
お会いすることはなかったのですが、
ご両親から、たくさんのお話を聞かせていただくことが
できました。

いろいろな経験を積んで、応用がきくようになると
ダウン症だけでなく、様々な障害を持つ子どもや
そのパパ、ママたちとお友達になれます。
出会いはいつも、本当にたくさんのことを教えてくれ、
また、様々な喜びをもたらしてくれます。

それでは皆さん、
街の中でよい出会いを!!!

    *日本ダウン症協会練馬支部「ちゅうりっぷの会」会報
     1997年2月号掲載。

朝日新聞「どうするあなたなら“出生前診断”」‘98.4.29版掲載文章
  Date: 2000-11-07 (Tue)

「親の悩みと『胎児条項』は別の問題」

「胎児条項の案は、これまで何度も出されてきました。
 その度に主に障害を持つ人たちの反対で廃案になりました。
 しかし、実際には水面下で、
 こういう動きがあるのではないかという
 不安があります。
 とくに、出生前診断の技術が一般化しようとしている中で、
 またこの法案をつくろうという動きが
 出てきかねないことは充分予想されます。」

「障害を持って生まれる胎児は中絶をしてもよい、ということが
 国の意見になっていくこと。
 これに対して、障害を持つ人もその家族も
 『断固反対』の思いは共通です。」

「一方では、出生前診断の対象となる障害を持つ子の親たちの中で、
 出生前診断に対しては、
 表に出にくい、微妙な心の揺れを持つ人がいるのもまた事実です。
 子どもが幸せな人生を歩もうとするとき、
 それを阻む壁が社会に存在するからです。」

「倫理が必要とされるような医学の進歩には、
 その技術は本来許されないことではと自覚しつつ、
 利用を選ぶ悲しい叫びが存在します。
 その悲しい叫びの本当の源こそが、
 大きく着目されていく必要のある問題なのだと思います。」

*「胎児条項」母体保護法の中に付け加えることを目的としている。
  障害を持って生まれてくることがあらかじめわかっている胎児は、
  合法的に中絶してもよいというもの。
*これはわたしの申し入れにより、朝日新聞社側の編集は一切ありません。

思春期のこと
  Date: 2001-7-15編集 (Thu)

−意識の芽生え−


「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00424]
発信者ちぃままより抜粋、細部訂正。

思春期の性の問題は、親が緊張する話題のひとつかと思います。
特に、男の子の芽生えは、女親にとっては
微妙な緊張があることと思います。

今回のケースでは、今のままでは
おっしゃるとおり「ママがいやがること」と
認識されてしまうでしょう。
「ママがいやがること」なので「ママがいたらしない」に
なってしまうと思います。

対象になる女の子達も、恥ずかしさがあるため
キャーキャーとなってしまうことも少なくないかもしれません。
そのことは、彼にとって「本当にいやがられてるのか」
不明瞭にさせているかもしれません。

本当のことを言えば、これは障害児の問題ではなく
「性教育が必要なシーン」なのだと思います。
女の子たちに
「からだは大切なもの」という話がきちんとされて
「きっぱりとイヤを意志表示しなければいけない」という話が
必要です。
ただ「ダメだと言ってあげて」では、
女の子たちも、大人に肩透かしを食っているようなものです。
つまり、「先生はあてにならない」。
そうすると、彼の行動の異常さだけが、女の子達の中に
認識されていくパターンです。

先生が、どうも、よくおわかりになっていないご様子。
「からだを考える性教育」の本を、先生にご紹介できればいいのですが、
記録に関してずぼらなわたしは、すぐに資料が出てきません。
ごめんなさい。
「性と生の教育」という、普通の小学生中学生高校生と
様々な年齢の障害児の性教育を考える、すばらしい雑誌があったのですが、
今は、出版社の都合で入手できないようで、残念です。

少し、考える範囲は大きくなってしまう本ならすぐわかります。
この場合、すぐに答えになるものではありませんが、
今ご紹介できるものだけ、最後にご紹介しておきます。
ご興味のある方は、参考になさってください。


で、この件の現実的な対策ですが、
まず、この彼に伝えるべきこと。

女の子に興味を持つことは、大事な成長でもあります。
見る、きれい、好き、さわりたい・・・。
おおもとは、こんな流れだったはずです。
今、この単純なことが、まわりの曖昧な反応で、
彼にはごちゃごちゃになってるはずです。
それを整理してあげましょう。

幸い、発達のいいお子さんのご様子ですから、
言葉で伝えられるべきことは伝えてみた方がよさそうです。

伝えるべきことは
「女の子の体にさわったら、それは嫌われるんだ」ということ。
「水着を着ているところは、さわってはいけないところ」。

もちろん、足だってダメなわけですが、
「水着を着ているところ」というのはわかりやすいようです。

で、この二つをしっかり、伝えてあげてほしい。
そして、ターゲットになる女の子にも、
きっぱりと、同じことを言って欲しいと伝えてください。
ターゲットになる子どもも、どう言えばいいか混乱していますから、
堂々とお願いできると思います。


彼が悪いのではありません。
彼にわかりやすく伝えられないことが、問題を大きくしていると
思います。


参考:「知的障害者の恋愛と性に光を」
   障害者の生と性の研究会編著
   かもがわ出版 ¥2200-
 
   「知的障害のある人の性とその周辺を理解する」
   全日本手をつなぐ育成会の本
   http://www1.odn.ne.jp/ikuseikai/index.html/kainohon.html


−思春期の不安−


「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00364]
発信者ちぃままより抜粋、細部訂正。

「思春期」は、大人を疑ってみる純粋さを持つ時期です。
自分なりの正義感を持って、大人を判断し始める時期です。
批判し、反抗する。
それを繰り返しながら、「自分」を見つけ、「生きるための妥協」を
学習していく。
不安や劣等感にも出会う時期です。

同性の子どもの場合、
「母の思春期の『不安』体験を話す」ということで
「ママもこんな変な気持ちのときがあったんだ」ということを知る。
思春期の不安が楽になることがあるようです。

思春期は通常、「自分なりの哲学」を身につけていく時期です。
親よりも「青臭い事を語り合う友人」との時間が
こころを助けてくれたりします。

幼い人生経験なりの「論理的思考」が
大きく働く時期です。

そして「障害」がプラスされる場合。

知的な障害があることで
上記の「論理的思考」が深めにくいというハンディがあります。
この時期の「不安」や「劣等感」はきちんと持ちますから、
不安にさらされる時期といえると思います。
「青臭い事を語り合う友人」とも、出会いにくい。

これらのことを考慮し、親にできることとは、
まず、「この子は人生の途中なんだ」という意識を持つこと。
「不安にさらされている」と言う事に、理解の考えを持つこと。

あとは、本人の個性を認めて、よりそう必要がある機会を
見据えていくことだと思います。

就学について
  Date: 2001-07-15編集 (Wed)

−横浜市の就学事情について−


1.就学相談

横浜市は、障害のある子どもが小学校に入るときに、居住地の学区の小学校の校長室が相談先になります。
これは、たとえば盲・ろう・養護学校に入学を希望する場合でも同じです。
まず、校長が面談を行います。
必要に応じて、横浜市教育委員会養護教育総合センターに相談ができます。
また、学校長が、教育委員会の指導主事に相談をする場合もあります。
就学先の選択は、「通常学級」「個別支援学級」「通常学級に通いながら通級指導教室参加」「盲・ろう・養護学校」中から選択します。
原則として「保護者の希望優先」ということになっており、相談の中で決定されます。

2.個別支援学級

横浜市は個別支援学級の学級数がたくさんあります。
どのように分布しているかは、区によって違いますが、小学校においては、100%に近い数字で推移しています。
児童・生徒数に応じた教員の数は原則としてありますが、知的障害個別支援学級、情緒障害個別支援学級というように、障害に応じて、学級編成を増やせることになっています。
ですから、児童・生徒の障害に応じて学級数を増やし、担任の数を決定する場合があり、これは管理職の判断にゆだねられています。

3.個別支援学級の交流教育

個別支援学級を教育の場に選んだときに出てくるのは、交流教育の必要性です。
該当学年の通常学級に参加する内容や時間数に関しては、保護者の希望を考慮し、児童・生徒の個性を鑑みながらも、就学先の担任やその学校の管理職の意見で左右されるところではあります。
どのような時間にどのくらいの時間数で交流教育を行うか、まず担任が指導計画として案を作ります。
そして、その児童に関わるすべての教員(個別支援学級担任、交流級担任、養護教諭等)と管理職で会議をして、交流教育の内容や時間数といった流れを考えていきます。
また、参加する個別支援学級や管理職との話し合いの中で、該当学年との交流だけではなく、学校内の児童・生徒を対象にした「遊び交流」「給食交流」「委員会・クラブ活動参加」「特別活動参加」なども行われます。

3.通級指導教室

学校長との面談の中で、必要に応じて、横浜市教育委員会養護教育総合センターと、相談の連携がはかられます。
通級指導教室に通うことが適切とされた場合や、親が通級指導教室を望む場合、通級指導委員会を経て、最寄りの通級指導教室への通級が決まります。
特殊学級に比べて、通級指導教室は数が少ないので、場所によっては、学区の普通級と通級指導教室に並行して通う場合、距離的にきついという面もあります。

4.居住地交流

就学先に盲・ろう・養護学校を選択した場合、「居住地交流」として、学区の小・中学校と交流の機会を持つことができます。
交流の種類としては「行事交流」と「個人交流」があり、保護者の希望によって決定されます。
「行事交流」は学区の小・中学校の行事を対象に行われ、「お知らせ」のご案内のみに終わるものから、行事に参加する等、ケースは様々です。
「個人交流」は学区の小・中学校の個別支援学級や通常学級の授業や教育活動に参加する形で行われます。
「個人交流」で参加する内容に関しては、保護者の希望を元に就学先の盲・ろう・養護学校で保護者と担任との話し合いが行われ、それを元に該当する小・中学校と盲・ろう・養護学校との話し合いにより時間数や期日が決定されます。
参加の形や内容は、児童・生徒の個性や児童・生徒と関わる担任教諭や管理職によって様々です。
在籍は盲・ろう・養護学校になりますので、交流時に交流先での教職員の加配はされません。
そのため「加配をされないままの交流」「保護者の付き添い」「盲・ろう・養護学校の教職員の付き添い」等、ケースも様々です。

*横浜市養護教育総合センター
 相談受付:045-336-6020

*追記* Date: 2005-01-14 (Fri)
・文中の単語の修正
「特殊学級」→「個別支援学級」
「養護学校」→「盲・ろう・養護学校」
「普通学級」→「通常学級」
・追加
「4.居住地交流」を追加
・修正
文中の表現を一部加筆・修正。

−「養護学校のこと」−

「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00186] Re: 養護学校って?
発信者ちぃままより抜粋。

養護学校って、なんだか近寄りがたい雰囲気がありますよね。
それは、やっぱり、一般の社会から箱でくくっているような感じが
するからだと思います。
あと、近所に養護学校があった人は別ですが、遠くになんだかよく
わからない子どもがいるところという印象があるのが、一般的な
感想だと思います。

養護学校のいいところは、職員の多いところ。いわゆる、きちんと
目が届く数が確保されているところです。
次にいいところは、タイムスケジュールが障害を持つ子どもに無理
がなく組まれているところです。

障害児学級は障害児教育を行っていますが、チャイムは普通の子ど
もと同じサイクルで鳴る。
つまり、体育をやる場合、着替えに時間をかけると時間がなくなっ
てしまいます。

養護学校の場合、食事や着替えなどの時間をゆっくり持ったタイム
テーブルを持つのが一般的です。
本人が、行動するのに充分なタイムテーブルである場合、本人に
自信を持たせることができるという利点があります。
必ず、ひとりひとりが主役になるような場面を作ることを考えた
授業内容が用意されている場合が多いので、自信を持つことが
必要なタイプの子には適している形態であるともいえると思います.

また、排泄の自立に関しての個人差を考慮して、シャワールーム
を用意したりしているのが一般的です。

養護学校で問題なのは、場所として、一般社会から隔離されてい
るところです。
地域交流をどこまで考えているかで、ずいぶん変わってきます。
また、一般社会から隔離されているために、たまに、常識的感覚
が一般人よりずれている教師がいることがあります。
体力づくりと称して、根性論のように頑張らせて体育会系の指導
という感じの体育を行う学校がこれに当たります。
しっかり生きていけるために、社会のお荷物にならないようにと
作業実習を必要以上に延々とやらせるところもあります。
その子どもの年齢にふさわしい教育より、本人のためと称して、
小学部から働く人に育てようとする姿勢の強い教育をするところ
もあります。

親の側の印象として、教師の数が多いので、クラスに大人ばっか
りで活気が感じられないと思う寂しさをもつ場合もあります。

まあ、ひとくちに養護学校言っても、その現場にいる人間に左右
されるところが本当に大きいと思います。
ただ、養護学校と
いうイメージが、年代をさかのぼればさかのぼるほど悪いので学芸大や、教育大などの国立大学付属の養護学
校の場合、「うちの子は国立だから」ということで、自身のため
らいを納得させようとした人たちも、まあいらっしゃったよう
です。

たとえ、他人の中でどんなイメージを持たれようが、安心してま
かせられると親が思える学校なら、それでいいのかもしれないと
思います。
親が養護学校を選ぶ場合、まず、自分自身の中の養護学校という
イメージからくる差別感覚に正面から向き合わなきゃいけないこ
と、これが実はけっこう難しいことのように思います。

障害を持つ親同士でも、「あの子は養護なんじゃない?」
なんつーことを言
って人の子と自分の子を比べてなんのかんの言う人も、
実際存在します。
これもけっこう、養護学校に対して持つ変な気分を増長させてい
るように思います。

でもさ、普通高校にすごい信念を持って入れさせようと思う人は
別だけど、小学校入学時に地域でどんな就学先を選んだ子も、
だいたい養護学校の高等部で顔を会わせるのさ。

以上、知的障害対応の養護学校考察でした。

肢体不自由の養護学校は、養護・訓練という時間が、教育内容に
組み込まれています。高額な訓練器具や、教師が工夫した道具が
見られます。
また、道具だけでなく、子どもに届く教育を試行錯誤しながら見
つけようとする教師に出会える喜びがあります。

ただ、肢体不自由の養護の現在の問題点としては、全体に障害の
重度化の傾向があるので、知的障害のないタイプのお子さんの
教育が、どうしても後手にまわってしまっていること。
遠くまで通わなければならないので、スクールバスに乗っている
時間が、一日のうちでとても長くなってしまうこと。
普通の子どもに普通に接する機会が、とても少なくなってしまっ
ている場合が多いことなどがあります。

*ちぃは地域の小学校の特殊学級に
 在籍です。
 この内容は、様々な養護学校を
 東京在住時に見学したことを材料に
 考察しました。

「バリアフリー」という言葉に感じる事。
  Date: 2000-09-11 (Mon)

「ばりあふりぃ」掲示板より。

―「バリアフリーという言葉に感じる事や経験を」という質問に答えて―

バリアですか。
バリアができるキーワードは「あるはずのものが無い」でしょうね。
「欠けてる」ってことに、怖れみたいなものを、
まず感じてしまうんだろうと思います。
人間っていうのは、でこぼこを生かして成り立ってるもんで、
こっちが凸ならあっちが凹みたいだからおもしろいんだけど、
経験できない凹は、やっぱり怖い。

「偏見は無知から始まる恐怖」ですから、
知り合ってみると、凹だと思ってた人の凸がわかったりしてという感じに
なっていくと思うんですけどね。
ただ、ほかの部分に凸があっても、一般的に無いはずの凹があるってことで
「不便」はいっぱいある。
その凹にすっと手を差し伸べるためには、
「凹があっても、人格が凹なんではない」ってことの意識が必要なんでしょうね。

実際の体験で言えば、親が誰でも経験することとして、
聞かされる言葉ってものに「バリア」はありますよね。
「大変ね」「偉い」「私にはできない」「がんばって」....。
どの言葉も、言ってる本人には悪気は無いんでしょう。それはわかる。
何か言おうとしてくれる好意もあるでしょう。それもわかる。
でも、どの言葉も「あっちとこっち」の間に、ざーーっと川が流れていくという感じが、実はありますよね。
言ってる方は、何気なく言いますけど、
もうこっちは「こればっか聞かされる」。
「耳たこ」ですよね、はっきり言って。
こちらの気持ちの状態によっては、げんなりするときもあると思います。
「あっちとこっち」を意識させられますからね。
あんまり聞きすぎて、みんな慣れちゃうんですけどね。
でも、子どもが小さいときは、この言葉に悩んでもおかしくはないですよね。

「バリアを感じない言葉」というのは、障害がわかったときに
「何かあったら言ってね」「できることがあったら言ってね」でしょうね。
言われたからって、はいそうですかって、なんでもかんでも頼むなんてことは無いですよ。
でも、「あっちとこっち」の間に川は流れない。
当事者ではないんだけど、当事者を「あっち」に追いやらないっていうかね。
こころのバリアフリーって、そんなところにあるような気がしますよ。

「言葉の獲得を目指すなかで」
  Date: 2000-08-29 (Tue)

「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00352]発信者ちぃまま より抜粋。

言語の獲得で重要なのは「おやばか」かと思います。
「通じあう喜び」が言語の原点です。
言葉の小さな芽を聞きとって、「伝わったよ」と伝えるのにもっとも
重要なのが「おやばか」だと思います。

小さな芽の段階では、本人も相手に伝わると思っていません。
むしろ「伝わらない孤独」にさらされています。
多少、勘違いがあったっていい、「伝わるよ」「伝わってるよ」と
親に気づいてもらうことが、どんなにうれしいことかと思います。
「伝えたい」意思を育てていくことが重要です。

わずかな単語がある。
このときに、「わずかな単語しかない」と親が思っていたら
お子さんの「伝えたい意思」は、元気よく育つとはいえないんじゃないか。
「単語があるんです! すこしだけなんだけど」と親には思っていて
ほしい。
そのわずかな単語でのコミュニケートで、言語以上のコミュニケートが
出きるはずです。
それが重要な「おやばか」の姿勢だと思います。

「ウーウー」というのも、そのときによって表情があると思います。
そのことを堂々と「おまえのことばだ」と受けとめてあげていただきたい。
人と通じ合う喜びの中に、コミュニケートはあります。
コミュニケートをしたいと思う気持ちを育てることが
結果的にことばを育てていくことにつながります。

とはいえ、「子どもの口から日本語が聞きたい」のは
言葉のない子、言葉の遅い子の親の共通の思いだと思います。
あせらず、ゆっくりとあるいていってください。


*はっきいメーリングリストに関しては
こちらをご参照ください。*
障害児の教育を考えるML(Handicapped Kids Education ML)
略称Hackie(はっきい)


  Date: 2002-09-5 (Tue)

言葉についてなのですけれど。
ダウン症だと告知されて、
最初に誰もが言葉の発達について、気に病んだのではないかと思われます。
けれど、言葉の発達は、
“どんな単語が、どんな言い回しが子どもの口から表出するか”という以上に、
その表出の個性に、成長というものを感じさせるものなのではないでしょうか。

言葉は、コミュニケーションの「手段」ですから、
コミュニケーションということを楽しむ成長というものが必要だと思われます。
何歳で何が言えるか、どこまでの能力の表現が使えるか。
ここに、つい親は躍起になってしまうところがあるように思います。
しかし、大切なのは、まずコミュニケーションを楽しむ能力なのではないでしょうか。
言葉の発達の目安というのは、あくまでも、その「レディネス」ということで。
親が、どこか子どもに対して安心したいがために、
能力的な準備段階の獲得に躍起になりすぎてしまったり、
表出する言葉だけで発達を計りすぎ、大事なことを落としてしまったりすれば、
子どもの成長を楽しむということから遠ざかることにもなりかねません。
言葉、これは、「いっしょにいて楽しい」が基本なのではないかと。

親が子どもの「言葉の能力」を計ろうとしようがしまいが、
子どもは生まれてからずっと、親に向かって「しゃべって」いるのだと思います。
それが、段々と、日本語に近づいていく。
言葉の発達というのは、そういうことなのではないかと。

きちんと伝わる形で「しゃべって」くれれば、それは親はうれしい。
しかし、ついつい、親が忘れがちなのは、
それは子ども自身こそが、うれしいのだということです。
言葉には、世界を共有できる喜びがあるのですから。
親がこの「言葉の発達」を急ぎすぎては、
この子どもの喜びを見失ってしまうのではないかとも思います。
親だけがわかる言葉が、他の人にもわかるようになっていく。
これも、本人にとって、「世界が広がる喜び」でしょう。

親の期待や親の失望。
そういったところとは別の次元で、
子ども本人に「伸びたい気持ち」というのは、着々と育っているものだと思います。
親という立場に必要なのは、その「伸びたい気持ち」に添うか、添わないか。
そういうことが、子どもの「言葉」というものを考える、
ひとつのポイントなのではないかと思います。

『言葉が出ない子なのに、歌を歌う』。
これはよくあることのようです。
聞いた音をまねる、覚えるという発達段階にあるにも関わらず、
会話上でそれが発揮されてない。
能力以前に個性として「口の重い子」、そして「プライドの高い子」が、
好きな音楽で緊張感を和らげられるのでしょう。
ひとりで口ずさんで歌っているのに、聞かれていることを意識すると、
口をつぐんでしまう子もいます。
「歌える」けれど、人前で歌が歌えるようになるというところにいくには、
けっこうな時間の経過が必要な子もいるようです。

『電話という概念が理解しにくい』。
電話の向こうにいる「見えない」相手が楽にイメージできるか。
電話は、コレが大きいようです。
言い回しのクセなどが把握できているような、
よく知っている人からかかってくる電話はわかりやすい。
わかりにくい時は、電話の相手の写真を見せてイメージを助けることなどで、
電話というものを理解する助けをすることもできるようです。
また、携帯電話で自宅の電話にかけ、それを取らせ、
見えないところに移動しながら話すというのも、ひとつの「手」です。

『相手が不愉快になる言葉』。
「イヤ」「バカ」「あっち行って」「ジジィ」「ババア」「クサイ」
こうした言葉を覚えて、楽しそうに使う子や、楽しそうに使う時期があるようです。
しつけとしてはもちろん、
気長に言ってはいけない状況をわかりやすく教えていかなければならない。
これは、普通の子に対してと同じことでしょう。
ただし、子どもの個性なりに覚えてくるこういう言葉、
「消失」させてはいけないのではないかとも思います。
人間は、自分が好まない状況のときに、
はっきりと「NO」を言わなければならないときがあります。
こうしたときに、この「相手を不愉快にさせる言葉」は、
その言葉にエネルギーを込めれば、りっぱに「NO」の役割を果たします。
こうした言葉を覚え始めたときに、「拒否の姿勢」も育っているか。
こんなことにも、注意が必要なのではないかと思います。

*日本ダウン症協会練馬支部「ちゅうりっぷの会」会報、
     2002年9月号掲載。

障害者スポーツ文化センター 横浜ラポール
  Date: 2000-08-29 (Tue)

障害を持つ人が楽しく、スポーツや文化活動ができるための施設です。
障害者専用ではなく、障害者優先施設です。
JR・横浜市営地下鉄新横浜駅から徒歩10分(新横浜駅から障害者優先の送迎バスあり)。
プール、体育館、フィットネスルーム、グランド、ボーリング場、シアター、創作工房、視聴覚室、和室、おもちゃ図書館などがあります。
料金は障害のある人とその介護人2名までによる個人利用は無料(ボーリングは有料)。障害の無い人はスポーツ施設利用時に500円が必要です。
団体利用の手続きをすると、各施設の貸し切り利用ができます(有料)。
問い合わせは045-475-2001 横浜ラポール利用案内まで。


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