障害を持つ子どもの親御さんを対象に、いろいろな媒体
に書いた文章を記したページです。
今まで書いたものを、少しずつ載せていくつもりです。
テーマによっては、新しいものを用意することもあります。
| ■ きょうだいのことについて |
| Date: 2001-7-15(Sat) 編集 |
−ダウン症の子どもとそのきょうだい、
そして親であるわたしたち−
人が人を「ありのままに受けとめること」。
これは、けして簡単なことではありません。
その中で、人は弱いものをありのままに受けとめる方が、
パワーのあるもの、大きいものをありのままに受けとめるよりも、
こなしやすいことなのかもしれません。
ダウン症の子どもは、親が「子どもがダウン症であること」を受けとめ、
包み込むことを始め、
愛情のこもったまなざしを注ぐと、やわらかな笑顔で応えてくれる。
そんな赤ちゃん時代をゆっくりと経て育っていきます。
それに比べて、知的な障害をもたない子どもは、
生まれてまもなくから、がんがん自己主張をし、
人間の未熟さを撒き散らして、方々に頭をぶつけまくって育っていく。
同じ両親の間でのこの違いは、やわらかな愛情を受けるといううえで、
きょうだいの方に不利な面があります。
ダウン症の子どもに、知的な発達に対してのハンディがあるならば、
そのきょうだいは、
「自然に自分を包みこんでもらう機会をもつこと」
にハンディを持っているような気がします。
障害をもつ子どもの障害自体を理解し、
援助や成長への心づかいを考えていくならば、
そのきょうだいのおかれた立場の、家庭内でのハンディにも、
心を尽くしていく努力が必要なのではないかと思います。
わたしは、
「障害を持たない子どもであるきょうだいたちに、愛情のハンディを持たせる
親は正しくない」とか
「みんなで正しい、りっぱな親になりましょう」とかと
正しさというものを強制するつもりはありません。
障害を持つ子の『障害』にとまどいながらも、それが日常になり、
いわゆる『普通』に感じていけば、
障害を持たない子どもの『障害のなさ』にも、とまどいを感じ始めるのは、
当然のことと思えるからです。
世の中は、障害を持つ人は少数です。
だから『障害』は、本来イレギュラーなことです。
しかし、家庭の中で、子どものひとりが障害を持ち、
そのきょうだいがひとりかふたりだとしたら、
その家庭の中では、『障害を持つ人』は「絶対的な少数派」ではなくなるのです。
親は「ふたつのものさし」にふりまわされて、
「なにが普通なのか」、よくわからなくなっていくのは
自然なことだと思うのです。
ダウン症の子どものきょうだいの持っている、
親子関係の中で生まれやすい『ハンディ』について、
それを認識した上で、子どもの個性に合わせた対処をすること。
ダウン症の子どもとそのきょうだいを持つ親御さんたちの中で、
この種のことに対して、様々に工夫をしたり、
力を尽くしていらっしゃる方はたくさんいます。
そんな方々のお話を聞いていると、
自分たちがりっぱな親になろうと、がむしゃらに努力するよりも、
「対処が必要な点を認識して、工夫する」方が、
自然によい方向が生まれていくような感想を持ちます。
きょうだいの個性のちがいに、親がとまどいながら育てていくこと。
これは実は、古今東西、そこらじゅうにころがっているところです。
とまどいを感じて、壁にあたったときは、親しい仲の人と、
たくさん話し合ってみてください。
聞いたり話したりすることは、意外な発見を生んでくれるものです。
わたしたちの生活の中では、
いけないと思ってもやってしまいがちなことは、たくさんあります。
感じる心は年齢分だとわかっていても、
障害を持つ子を年齢より低く扱ってしまったり、
障害を持たない子どもに、
年齢より大人になることを強いてしまったりすること。
障害を持たない子どもに対して、
「〜〜くらいできるのは当たり前だろう。アンタは健常児なんだから」
と、ほめことばを、ついつい、ケチってしまうこと。
きょうだい間の、子どもらしいやりとりの際に、ついつい口を出して、
ダウン症の子どもをかばいすぎてしまうこと。
障害を持たない子どもの自己主張の強さに向かい合わずに、
ダウン症の子どもとの、やわらかな関係に逃げこみたくなってしまうこと。
これを全てやらないという親は、正しいのかもしれない。
でも、わかっていながら、正しくはなれない。
そこが、つらいところだと思います。
例えば、そんなことのひとつひとつを、
まず、自分たちの中に認めてしまおう。
つまりは「親である」自分たち自身をも
「ありのままに受けとめる」ことからまず出発しようと、
わたしは提言したい。
親も子どもも、生活の中で、いろいろなことにじたばたしている。
その中で、その家庭を構成するひとりひとりの、様々な個性が生かされること。
それは「ありのままに受けとめる」ことが、出発点なのではないかと思います。
そこに、画一的な正しさにとどまらない、
いろいろなことに対しての答えが潜んでいるような気がします。
*日本ダウン症協会練馬支部「ちゅうりっぷの会」会報、
1997年10月号掲載。
*愛児クリニック、ニュースレター、第24号に転載
*ダウン症フォーラムin横浜において、ポスターセッションにて、
掲示。
−一部、加筆、修正しました−
−きょうだいのことについて−
ダウン症の赤ちゃんが生まれた・・・。
すでにお子さんのいる方は
「“障害児のきょうだい”という立場をこの子が背負っていく」
という心配に、胸を痛めたのではないでしょうか。
第一子がダウン症児で、第二子が誕生という場合、
第一子への愛情が、第二子の出現で薄れるのではと言う危惧を
感じられた方もいるでしょう。
また、ダウン症児とのやわらかなゆっくりとした時間の流れの
やり取りに慣れてしまって、
ハンディを持たないきょうだいの気持ちの表現の激しさにため息をついたり、冷たくあたってしまったりということもあるでしょう。
自分が“障害児のきょうだい”の経験をせずにおとなになってしまったから“障害児のきょうだい”という立場に身を置くわが子が心配で・・・。
だからといって、何をどうしていいかはよくわからない。
目の前にあることをひとつひとつこなしてくだけ。
そんな毎日を、生活として送っているのが日常なのではないでしょうか。
“障害児のきょうだい”を考えるとき、ポイントは二つあると思います。
親として考えておきたい二つのポイントです。
ひとつは“さみしい思いをしていないか”ということ。
全国障害者兄弟姉妹の会の田部井恒夫氏によると、
兄弟は育つ過程で“さみしい思い”を経験している人が少なくない
といいます。
常に目立つ立場にあるハンディを持ったきょうだいの“陰”のように、
自分を感じてしまう子もいるでしょう。
“障害児のきょうだい”の立場にいる同世代の友人達は、このあたりで、
実に微妙な気持ちを教えてくれました。
つい最近、「ああ、わたしは親にかまってもらいたかったのだ」という
気持ちに気づいたという友人。
その気持ちに気づくことに対して、どこか心に封印をおされていたようです。
また、別の友人は“障害をもつきょうだい”と二人でいるときに
事故に遭いそうになった時、
「私が死ぬよりも、弟が死ぬ方が母はきっと悲しむだろう」
と思ったといいます。
きょうだいの個性が“障害の有無”ということで、
はっきりとしたちがいを見せている分、
“同じ時点で同じやり方できょうだいに平等に愛情を”ということでは、
多少限界があるのかもしれません。
別個の時間、別個のやり方をとる工夫も、時には必要にもなるでしょう。
きょうだいとママだけの時間を有意義に過ごすことを考えたり、
きょうだいとママとで、お手紙をやりとりしたり。
“ママと自分だけのこと”ぐらい特別でないと、
障害をもつという特別なことには、なかなか対抗できないかもしれませんよね。
“きょうだいげんか”の難しさも“さみしい思い”と関連することが
あるかもしれません。
ごくふつうの“きょうだいげんか”でも、親からは一方的な攻撃に
ついつい見えてしまうことがあります。
きょうだいの言い分に耳を貸すことが、なかなか難しい時だってあるでしょう。
“きょうだいの方に、ありのままに言い分を受け取ってもらいにくい部分がある”ことは、おさえておいた方がいいようです。
「きょうだいげんかをちゃんとしたかった。私はこれが我慢できないんだという言い分を、ちゃんと妹にぶつけたかった。妹なりにわかるはずと思っていた」という“きょうだいとしての言い分”が、私には印象的なことばとして残っています。
力関係として、言い分をぶつけることを我慢させたりした時は、
親がその言い分の受け手になったり、理解者になったりすることが、
時に必要になることなのかもしれません。
もうひとつのポイントは将来のことでしょう。
「母は弟が大人になっていくことを考えて育てなかった。
弟が親から精神的に独立するチャンスを見失わせてしまった。
弟は今、いろいろな感情のはけ口を、
母を相手にしてバランスをとっている。
同じことは私にできないし、してやれない。
母が死んだら、私には何もできないことを、私自身が知っている」。
こう話してくれた友人は、私に繰り返し繰り返したずねました。
「ちぃちゃんを、大人にしようと思って育てている?」
「きょうだいに迷惑をかけたくない」と言ったとしても、
障害を持つ子どもを、将来的なことをあとまわしにして考えて育てた時、
不安を持つのはきょうだいという部分もあります。
きょうだい同士が成人後、まったく関わりを持たなくなるのは、
実に不自然なことです。
きょうだいが無理なく関われたり、できる範囲でなんらかの支えになること。これはきょうだいにとって望む形 という意見をもつ傾向があるようです。
前述の田部井氏によると、きょうだいが親亡き後、障害を持ったきょうだいに関わって行く場合、無理のないことが長続きの秘訣だそうです。
きょうだいの相談相手になったり、利用施設(生活施設、作業施設)と関わったり、たまに泊まりを受け入れたり。
障害者本人も望まないことが多いので、同居は不要だといいます。
そして
「きょうだいが無理なく上手にひきつげることを念頭において育ててほしい」といいます。
ただ、きょうだいの将来について、漠然と不安を持つより、
自分にできることが無理のない範囲で見つけられることのほうが
大きいようです。
文中の“全国障害者と共に兄弟姉妹の会”は、親が代理で会員になることができません。
あくまでも本人が本人の意志で申込むことが原則となっているそうです。
そのため、早い時期に入会した人でも、中3〜高校生。
「もっと小さい時から“きょうだい”が別の“きょうだい”に出会う必要があるのではないか」ということも、今、考えられてるとのことでした。
私はちぃが生まれ、その3年後に弟が生まれてから“障害児のきょうだい”の立場の人に、いろいろなことを聞かせてもらいました。
親の視点とはまた違う視点があり、親とは違う種類の包容力を感じることもあります。
いろんなことを調べたり、考えたりしつつも、個々の子どもをそのまま見つめて受けとめようという努力目標の中で生活しています。
ちぃの将来をすっきりと見通して考えていくことが、結局のところ、弟のためでもあったりするんだなあと、あらためて思ったりもしています。
あとは、弟が“障害児のきょうだい”という立場に身をおくことに対しての
思考や悩み等ですが、
これは共通の立場にある人とのやり取りの中で育ってほしいと思っています。
そのことを考えると、家族参加の企画の中で、きょうだい同士が知り合っていく機会をつくっていくことも大切なことなのだろうと思っています。
*日本ダウン症協会練馬支部「ちゅうりっぷの会」会報、
2000年1月号掲載。
*滋賀県「ひよこの会」(ダウン症の子をもつ親の会)会報、
2000年12月号掲載。
* 全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会
http://www.normanet.ne.jp/~kyodai/index.html
障害者のきょうだいに関する調査報告(概要)
http://www.normanet.ne.jp/~kyodai/siryo.html
−障害児のきょうだいのこと−
「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00261] 障害児の兄弟のこと
発信者ちぃままより抜粋。
兄弟の話題の中で、兄弟に将来を頼むかどうかという話があったので、
情報のご案内です。
「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会」
という団体があります。
結成は昭和38年です。
ここで活躍される方に、講演会の形で
お話を伺ったことがあります。
以下、私が聞いて、印象的だった部分の要旨です。
***************************
「将来の面倒はみなくていい」という親は少なくないが、
そうですかというわけにもいかないのがきょうだいだ。
明らかに誰かの手を必要としている時に、背を向けるということは
簡単にできることじゃない。
それをするということは、きょうだいにとっても『家族を失う』と
いう部分がある。
親に対して思うことは、きちんと育てて上手に引き継がせてほしい
ということ。
障害を持つ子どもに対しての将来のビジョンをしっかり持って、
大人になった時の生活をイメージして育てて欲しいということ。
それに沿って、きょうだいが出来る範囲で援助できるように。
いっしょに住むだけが援助じゃない。
「あそこに住んでこういう生活をしているんだ。」と、
面会なり、帰省先になるなり、職員と連絡をとるなりといった、
そのときの生活なりの援助が自分たちにできるように。
自分たちが安心して、無理なくできるように。
きょうだいはきょうだいの抱える問題がある。
結婚と親亡き後の問題。
これは、どちらも「正確な情報」と「仲間の存在」で越えられるはず。
親が、障害を持つ子どもの将来を考えずに、
大人の生活として未完成のままで年老いていくこと。
それを避けてもらいたい。
******************************
書籍 「きょうだいは親にはなれないけれど」
全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会東京支部編
ぶどう社 ¥1600−
全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会
〒101 東京都江東区北砂1−15−8
地域交流支援センター内
03-5634-8790
Fax 03-3644-6808
会員及び会費
正会員: きょうだいに障害者がいる方、ともに活動をすることを
望む方。(親が代理で申し込むことはできません)
支部会員・6千円以下 直属会員・6千円
賛助会員:会の趣旨に賛同し、財政的援助をしてくださる方。
機関誌購読だけでもできます。(送料込み500円)
(1996年資料)
■ 朝日新聞「どうするあなたなら“出生前診断”」‘98.4.29版掲載文章
Date: 2000-11-07 (Tue) 「親の悩みと『胎児条項』は別の問題」
「胎児条項の案は、これまで何度も出されてきました。
その度に主に障害を持つ人たちの反対で廃案になりました。
しかし、実際には水面下で、
こういう動きがあるのではないかという
不安があります。
とくに、出生前診断の技術が一般化しようとしている中で、
またこの法案をつくろうという動きが
出てきかねないことは充分予想されます。」
「障害を持って生まれる胎児は中絶をしてもよい、ということが
国の意見になっていくこと。
これに対して、障害を持つ人もその家族も
『断固反対』の思いは共通です。」
「一方では、出生前診断の対象となる障害を持つ子の親たちの中で、
出生前診断に対しては、
表に出にくい、微妙な心の揺れを持つ人がいるのもまた事実です。
子どもが幸せな人生を歩もうとするとき、
それを阻む壁が社会に存在するからです。」
「倫理が必要とされるような医学の進歩には、
その技術は本来許されないことではと自覚しつつ、
利用を選ぶ悲しい叫びが存在します。
その悲しい叫びの本当の源こそが、
大きく着目されていく必要のある問題なのだと思います。」
*「胎児条項」母体保護法の中に付け加えることを目的としている。
障害を持って生まれてくることがあらかじめわかっている胎児は、
合法的に中絶してもよいというもの。
*これはわたしの申し入れにより、朝日新聞社側の編集は一切ありません。
■ 思春期のこと
Date: 2001-7-15編集 (Thu)
−意識の芽生え−
「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00424]
発信者ちぃままより抜粋、細部訂正。
思春期の性の問題は、親が緊張する話題のひとつかと思います。
特に、男の子の芽生えは、女親にとっては
微妙な緊張があることと思います。
今回のケースでは、今のままでは
おっしゃるとおり「ママがいやがること」と
認識されてしまうでしょう。
「ママがいやがること」なので「ママがいたらしない」に
なってしまうと思います。
対象になる女の子達も、恥ずかしさがあるため
キャーキャーとなってしまうことも少なくないかもしれません。
そのことは、彼にとって「本当にいやがられてるのか」
不明瞭にさせているかもしれません。
本当のことを言えば、これは障害児の問題ではなく
「性教育が必要なシーン」なのだと思います。
女の子たちに
「からだは大切なもの」という話がきちんとされて
「きっぱりとイヤを意志表示しなければいけない」という話が
必要です。
ただ「ダメだと言ってあげて」では、
女の子たちも、大人に肩透かしを食っているようなものです。
つまり、「先生はあてにならない」。
そうすると、彼の行動の異常さだけが、女の子達の中に
認識されていくパターンです。
先生が、どうも、よくおわかりになっていないご様子。
「からだを考える性教育」の本を、先生にご紹介できればいいのですが、
記録に関してずぼらなわたしは、すぐに資料が出てきません。
ごめんなさい。
「性と生の教育」という、普通の小学生中学生高校生と
様々な年齢の障害児の性教育を考える、すばらしい雑誌があったのですが、
今は、出版社の都合で入手できないようで、残念です。
少し、考える範囲は大きくなってしまう本ならすぐわかります。
この場合、すぐに答えになるものではありませんが、
今ご紹介できるものだけ、最後にご紹介しておきます。
ご興味のある方は、参考になさってください。
で、この件の現実的な対策ですが、
まず、この彼に伝えるべきこと。
女の子に興味を持つことは、大事な成長でもあります。
見る、きれい、好き、さわりたい・・・。
おおもとは、こんな流れだったはずです。
今、この単純なことが、まわりの曖昧な反応で、
彼にはごちゃごちゃになってるはずです。
それを整理してあげましょう。
幸い、発達のいいお子さんのご様子ですから、
言葉で伝えられるべきことは伝えてみた方がよさそうです。
伝えるべきことは
「女の子の体にさわったら、それは嫌われるんだ」ということ。
「水着を着ているところは、さわってはいけないところ」。
もちろん、足だってダメなわけですが、
「水着を着ているところ」というのはわかりやすいようです。
で、この二つをしっかり、伝えてあげてほしい。
そして、ターゲットになる女の子にも、
きっぱりと、同じことを言って欲しいと伝えてください。
ターゲットになる子どもも、どう言えばいいか混乱していますから、
堂々とお願いできると思います。
彼が悪いのではありません。
彼にわかりやすく伝えられないことが、問題を大きくしていると
思います。
参考:「知的障害者の恋愛と性に光を」
障害者の生と性の研究会編著
かもがわ出版 ¥2200-
「知的障害のある人の性とその周辺を理解する」
全日本手をつなぐ育成会の本
http://www1.odn.ne.jp/ikuseikai/index.html/kainohon.html
−思春期の不安−
「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00364]
発信者ちぃままより抜粋、細部訂正。
「思春期」は、大人を疑ってみる純粋さを持つ時期です。
自分なりの正義感を持って、大人を判断し始める時期です。
批判し、反抗する。
それを繰り返しながら、「自分」を見つけ、「生きるための妥協」を
学習していく。
不安や劣等感にも出会う時期です。
同性の子どもの場合、
「母の思春期の『不安』体験を話す」ということで
「ママもこんな変な気持ちのときがあったんだ」ということを知る。
思春期の不安が楽になることがあるようです。
思春期は通常、「自分なりの哲学」を身につけていく時期です。
親よりも「青臭い事を語り合う友人」との時間が
こころを助けてくれたりします。
幼い人生経験なりの「論理的思考」が
大きく働く時期です。
そして「障害」がプラスされる場合。
知的な障害があることで
上記の「論理的思考」が深めにくいというハンディがあります。
この時期の「不安」や「劣等感」はきちんと持ちますから、
不安にさらされる時期といえると思います。
「青臭い事を語り合う友人」とも、出会いにくい。
これらのことを考慮し、親にできることとは、
まず、「この子は人生の途中なんだ」という意識を持つこと。
「不安にさらされている」と言う事に、理解の考えを持つこと。
あとは、本人の個性を認めて、よりそう必要がある機会を
見据えていくことだと思います。
■ 就学について
Date: 2001-07-15編集 (Wed)
−横浜市の就学事情について−
1.就学相談
横浜市は、障害のある子どもが小学校に入るときに、居住地の学区の小学校の校長室が相談先になります。
これは、たとえば養護学校に入学を希望する場合でも同じです。
まず、校長が面談を行います。
必要に応じて、横浜市教育委員会養護教育相談センターに相談ができます。
また、学校長が、教育委員会の指導主事に相談をする場合もあります。
就学先の選択は、普通学級、特殊学級、普通学級に通いながら通級指導教室、養護学校。これらの中から選択します。
2.特殊学級
横浜市は特殊学級の学級数がたくさんあります。
どのように分布しているかは、区によって違いますが、
歩いていける範囲にはあるということが多いようです。
教師一人につき児童七人ということになっていますが、
知的障害特殊学級、情緒障害特殊学級というように、
障害に応じて、学級編成を増やせることになっています。
ですから、児童七人でも障害が違う場合、
学級編成を二つにして担任が二名というケースが出てきます。
3.特殊学級の交流教育
特殊学級を教育の場に選んだときに出てくるのは、交流教育のことです。
これは、選んだ場の担任やその学校の管理職の意見が左右されるところではあります。
どのような時間にどのくらいの時間数で、交流教育を行うか、まず担任が指導計画として案を作ります。
そして、その児童に関わるすべての先生と管理職で会議をして、交流教育の流れを考えていきます。
横浜市は特殊学級の数が多いので、一クラスに10人以上いることは滅多にありません。
児童の人数が少ないので、交流教育を実施しやすいとも言えます。
3.通級指導教室
学校長との面談の中で、必要に応じて、横浜市教育委員会養護教育相談センターと、相談の連携がはかられます。
通級指導教室に通うことが適切とされた場合や、親が通級指導教室を望む場合、通級指導委員会を経て、最寄りの通級指導教室への通級が決まります。
特殊学級に比べて、通級指導教室は数が少ないので、場所によっては、学区の普通級と通級指導教室に並行して通う場合、距離的にきついという面もあります。
*横浜市養護教育相談センター
相談受付:045-336-6020
−「養護学校のこと」−「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00186] Re: 養護学校って?
発信者ちぃままより抜粋。
養護学校って、なんだか近寄りがたい雰囲気がありますよね。
それは、やっぱり、一般の社会から箱でくくっているような感じが
するからだと思います。
あと、近所に養護学校があった人は別ですが、遠くになんだかよく
わからない子どもがいるところという印象があるのが、一般的な
感想だと思います。
養護学校のいいところは、職員の多いところ。いわゆる、きちんと
目が届く数が確保されているところです。
次にいいところは、タイムスケジュールが障害を持つ子どもに無理
がなく組まれているところです。
障害児学級は障害児教育を行っていますが、チャイムは普通の子ど
もと同じサイクルで鳴る。
つまり、体育をやる場合、着替えに時間をかけると時間がなくなっ
てしまいます。
養護学校の場合、食事や着替えなどの時間をゆっくり持ったタイム
テーブルを持つのが一般的です。
本人が、行動するのに充分なタイムテーブルである場合、本人に
自信を持たせることができるという利点があります。
必ず、ひとりひとりが主役になるような場面を作ることを考えた
授業内容が用意されている場合が多いので、自信を持つことが
必要なタイプの子には適している形態であるともいえると思います.
また、排泄の自立に関しての個人差を考慮して、シャワールーム
を用意したりしているのが一般的です。
養護学校で問題なのは、場所として、一般社会から隔離されてい
るところです。
地域交流をどこまで考えているかで、ずいぶん変わってきます。
また、一般社会から隔離されているために、たまに、常識的感覚
が一般人よりずれている教師がいることがあります。
体力づくりと称して、根性論のように頑張らせて体育会系の指導
という感じの体育を行う学校がこれに当たります。
しっかり生きていけるために、社会のお荷物にならないようにと
作業実習を必要以上に延々とやらせるところもあります。
その子どもの年齢にふさわしい教育より、本人のためと称して、
小学部から働く人に育てようとする姿勢の強い教育をするところ
もあります。
親の側の印象として、教師の数が多いので、クラスに大人ばっか
りで活気が感じられないと思う寂しさをもつ場合もあります。
まあ、ひとくちに養護学校言っても、その現場にいる人間に左右
されるところが本当に大きいと思います。
ただ、養護学校と
いうイメージが、年代をさかのぼればさかのぼるほど悪いので学芸大や、教育大などの国立大学付属の養護学
校の場合、「うちの子は国立だから」ということで、自身のため
らいを納得させようとした人たちも、まあいらっしゃったよう
です。
たとえ、他人の中でどんなイメージを持たれようが、安心してま
かせられると親が思える学校なら、それでいいのかもしれないと
思います。
親が養護学校を選ぶ場合、まず、自分自身の中の養護学校という
イメージからくる差別感覚に正面から向き合わなきゃいけないこ
と、これが実はけっこう難しいことのように思います。
障害を持つ親同士でも、「あの子は養護なんじゃない?」
なんつーことを言
って人の子と自分の子を比べてなんのかんの言う人も、
実際存在します。
これもけっこう、養護学校に対して持つ変な気分を増長させてい
るように思います。
でもさ、普通高校にすごい信念を持って入れさせようと思う人は
別だけど、小学校入学時に地域でどんな就学先を選んだ子も、
だいたい養護学校の高等部で顔を会わせるのさ。
以上、知的障害対応の養護学校考察でした。
肢体不自由の養護学校は、養護・訓練という時間が、教育内容に
組み込まれています。高額な訓練器具や、教師が工夫した道具が
見られます。
また、道具だけでなく、子どもに届く教育を試行錯誤しながら見
つけようとする教師に出会える喜びがあります。
ただ、肢体不自由の養護の現在の問題点としては、全体に障害の
重度化の傾向があるので、知的障害のないタイプのお子さんの
教育が、どうしても後手にまわってしまっていること。
遠くまで通わなければならないので、スクールバスに乗っている
時間が、一日のうちでとても長くなってしまうこと。
普通の子どもに普通に接する機会が、とても少なくなってしまっ
ている場合が多いことなどがあります。
*ちぃは地域の小学校の特殊学級に
在籍です。
この内容は、様々な養護学校を
東京在住時に見学したことを材料に
考察しました。
■ 「バリアフリー」という言葉に感じる事。
Date: 2000-09-11 (Mon) 「ばりあふりぃ」掲示板より。
―「バリアフリーという言葉に感じる事や経験を」という質問に答えて―
バリアですか。
バリアができるキーワードは「あるはずのものが無い」でしょうね。
「欠けてる」ってことに、怖れみたいなものを、
まず感じてしまうんだろうと思います。
人間っていうのは、でこぼこを生かして成り立ってるもんで、
こっちが凸ならあっちが凹みたいだからおもしろいんだけど、
経験できない凹は、やっぱり怖い。
「偏見は無知から始まる恐怖」ですから、
知り合ってみると、凹だと思ってた人の凸がわかったりしてという感じに
なっていくと思うんですけどね。
ただ、ほかの部分に凸があっても、一般的に無いはずの凹があるってことで
「不便」はいっぱいある。
その凹にすっと手を差し伸べるためには、
「凹があっても、人格が凹なんではない」ってことの意識が必要なんでしょうね。
実際の体験で言えば、親が誰でも経験することとして、
聞かされる言葉ってものに「バリア」はありますよね。
「大変ね」「偉い」「私にはできない」「がんばって」....。
どの言葉も、言ってる本人には悪気は無いんでしょう。それはわかる。
何か言おうとしてくれる好意もあるでしょう。それもわかる。
でも、どの言葉も「あっちとこっち」の間に、ざーーっと川が流れていくという感じが、実はありますよね。
言ってる方は、何気なく言いますけど、
もうこっちは「こればっか聞かされる」。
「耳たこ」ですよね、はっきり言って。
こちらの気持ちの状態によっては、げんなりするときもあると思います。
「あっちとこっち」を意識させられますからね。
あんまり聞きすぎて、みんな慣れちゃうんですけどね。
でも、子どもが小さいときは、この言葉に悩んでもおかしくはないですよね。
「バリアを感じない言葉」というのは、障害がわかったときに
「何かあったら言ってね」「できることがあったら言ってね」でしょうね。
言われたからって、はいそうですかって、なんでもかんでも頼むなんてことは無いですよ。
でも、「あっちとこっち」の間に川は流れない。
当事者ではないんだけど、当事者を「あっち」に追いやらないっていうかね。
こころのバリアフリーって、そんなところにあるような気がしますよ。
■ 「言葉の獲得を目指すなかで」
Date: 2000-08-29 (Tue) 「はっきいメーリングリスト」より。
[hackie:00352]発信者ちぃまま より抜粋。
言語の獲得で重要なのは「おやばか」かと思います。
「通じあう喜び」が言語の原点です。
言葉の小さな芽を聞きとって、「伝わったよ」と伝えるのにもっとも
重要なのが「おやばか」だと思います。
小さな芽の段階では、本人も相手に伝わると思っていません。
むしろ「伝わらない孤独」にさらされています。
多少、勘違いがあったっていい、「伝わるよ」「伝わってるよ」と
親に気づいてもらうことが、どんなにうれしいことかと思います。
「伝えたい」意思を育てていくことが重要です。
わずかな単語がある。
このときに、「わずかな単語しかない」と親が思っていたら
お子さんの「伝えたい意思」は、元気よく育つとはいえないんじゃないか。
「単語があるんです! すこしだけなんだけど」と親には思っていて
ほしい。
そのわずかな単語でのコミュニケートで、言語以上のコミュニケートが
出きるはずです。
それが重要な「おやばか」の姿勢だと思います。
「ウーウー」というのも、そのときによって表情があると思います。
そのことを堂々と「おまえのことばだ」と受けとめてあげていただきたい。
人と通じ合う喜びの中に、コミュニケートはあります。
コミュニケートをしたいと思う気持ちを育てることが
結果的にことばを育てていくことにつながります。
とはいえ、「子どもの口から日本語が聞きたい」のは
言葉のない子、言葉の遅い子の親の共通の思いだと思います。
あせらず、ゆっくりとあるいていってください。
*はっきいメーリングリストに関しては
こちらをご参照ください。*
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/rhtakahashi/syuu.mail.html
■ 障害者スポーツ文化センター 横浜ラポール
Date: 2000-08-29 (Tue) 障害を持つ人が楽しく、スポーツや文化活動ができるための施設です。
障害者専用ではなく、障害者優先施設です。
JR・横浜市営地下鉄新横浜駅から徒歩10分(新横浜駅から障害者優先の送迎バスあり)。
プール、体育館、フィットネスルーム、グランド、ボーリング場、シアター、創作工房、視聴覚室、和室、おもちゃ図書館などがあります。
料金は障害のある人とその介護人2名までによる個人利用は無料(ボーリングは有料)。障害の無い人はスポーツ施設利用時に500円が必要です。
団体利用の手続きをすると、各施設の貸し切り利用ができます(有料)。
問い合わせは045-475-2001 横浜ラポール利用案内まで。